徳川将軍朱印状
近藤家の客殿
祈願寺として
崇敬した
気賀近藤家建立
客殿と枯山水
殿さまの間から
絶景楽しむ
近藤家客殿/俊興、1693年~1700年に客殿建立と長楽寺誌にあります。また、寛延3年(1750)俊禅の棟札があると「細江の歩み」には載っていて、詳細は不明ですが1700年前後であると推測されます。満天星の庭は客殿上段「殿さまの間」からの眺めがおすすめです。窓から庭が一望。遠景の借景には、山号の由来「光る岩」も望め、夜にはその上空に真言宗で大切とされる本明星(北斗七星)も拝めます。貞享二年(1685)5月2日 建立だったと伝わる本堂が朽ちて解体されたあとは、この客殿が主堂となっています。
江戸時代、この付近は旗本の気賀近藤家が五千石の領地に陣屋を構え、気賀の関所を二百五十年(十二代)治めました。長楽寺は気賀近藤家の祈願所として崇敬。祖は、NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』に登場する井伊谷三人衆の一人・近藤康用の孫にあたる用可です。
上段の間の襖絵は、石峰という方の落款があり4枚残っています。襖のいたみは進んでいますが、よく見ると金鶏と朝顔など優美な花鳥風月の描写で、趣のある日本画となっています。。恩田石峰は江戸中期に吉田に生まれ、画を渡辺南岳に師事、円山派を学びました。帰郷後、吉田藩のお抱え絵師、東三河・西遠江を中心に明治まで活躍、渡辺崋山をしのぐとも言われた画人です。
また、大阪冬の陣と夏の陣の間でやりとりされた家康と秀頼の書状の写し(江戸初期・寛永時代のもの)が表装されて残されています。これは真筆ではなく江戸時代に書かれた手紙の体裁で大阪の陣を物語のように書いたものの様です。
江戸時代
徳川家光公から
十四代将軍まで
授かった
寺領安堵の
御朱印状控有り
徳川将軍からの領知朱印状の記録が残されています。記録では、3代将軍家光、5代綱吉、8代吉宗、9代家重、10代家治、11代家斉、12代家慶、13代家定、14代家茂の九将軍からの朱印状があったとされています。
原本の朱印状には、観音堂領 遠江国遠江国引佐郡気賀村長楽寺観音堂領同村内、四石五斗の事、先規に任せてこれを寄附する。全く収納すべし。併せて寺中門前、山林竹木諸役等これを免除す。有来ごとく永く相違あるべからず。慶安元年八月十七日 朱印。宛先は、近藤兵庫助領分、紀州高野山古儀真言宗平等院末、遠江国引佐郡気賀村、長楽寺となっていて将軍の大型朱印が日付の下に押して有ったようです。
寺は寺領と呼ばれる広大な所領を有していたが、豊臣秀吉の太閤検地でほとんどの寺がそれを失い公領となりました。江戸時代に入り各寺社に、かつて領有していた土地の一部が返還され、徳川将軍より10石以下の寺は朱印状によってその所領が安堵されました。領内の租税は免除されており、収益は全て寺社のものとなったそうです。土地の最も広い高野山や日光東照宮でも1万石程度、最も狭いものではわずか1石で、朱印地からの収益だけで寺の経営が成り立っていたわけでは無く江戸時代、長楽寺は主に気賀近藤家に支えられ寄進された米や金銭で経営を維持してきました。明治4年の「上知令」によって朱印地は国有地とされ朱印状も新政府が回収しました。寺には朱印状控とごくわずかの境内地だけが残されました。