平安の昔
弘法大師空海が
陽光に輝く岩座に
聖地を感じ
寺を建立という伝
山号 光岩山
長楽寺のご由緒
平安初期に弘法大師空海が
遠山の斜面にある一枚の岩座が
陽光に輝いたこの地を聖地と感じ
寺を建立したと伝わっている
江戸時代には七堂伽藍が
立ちならぶ古刹として栄えた
いまは本堂も老朽化し
昭和五十年代に解体
本堂跡へは梅林の古道がつづき
当時の興隆が偲ばれる
寺宝は鎌倉時代のご本尊 馬頭観音
鎌倉の梵鐘や室町の土塀
江戸時代の山門と客殿
遠州三名園の一つ伝小堀遠州作
満天星の庭が四季を奏でる
弘法大師空海と真言宗
弘法大師空海
遍照金剛
真言宗を開く
お大師さまは、774年(宝亀5年)に讃岐国(現在の香川県)にお生まれになりました。
都の大学に入りますが、中退し青年時代は山岳修行に励み、室戸岬で「虚空蔵求聞持法/こくうぞうぐもんじほう」を修め、明星が口の中に飛び込むという体験をされました。
804年(延暦23年)密教をより深く学ぶため遣唐使船に乗り、唐の都・長安で、青龍寺の「恵果阿闍梨/けいかあじゃり」より、密教の奥義をことごとく授かると共に「阿闍梨位」の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する“遍照金剛/へんじょうこんごう”の灌頂名を授かりました。806年(大同元年)密教の法具や多数の仏教経典を携え日本に帰国。
帰国後、真言宗を開き、密教修禅の道場として高野山を開創、嵯峨天皇より勅賜された東寺を真言秘密道場として整備し、密教思想を体系化し「般若心経秘鍵/はんにゃしんぎょうひけん」、「即身成仏義/そくしんじょうぶつぎ」などを著述されました。大旱魃の京都では、神泉苑で請雨経法を修すると三日間雨が降ったと伝わっています。
821年(弘仁12年)香川県に満濃池を作り、当時の最新工法で治水事業を完成させ、日本で初めて庶民にも門戸を開いた「綜芸種智院/しゅげいしゅちいん」を開校するなど、社会活動も精力的に行ないました。
835年(承和2年)3月21日に高野山にて「入定/にゅうじょう」され、921年(延喜21年)には、弘法大師の諡号が醍醐天皇より贈られました。
御宝号:南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)
(上記画像出典/国立博物館蔵 ColBase“https://colbase.nich.go.jp/”)
真言宗とは
真言宗は、弘法大師空海さまが唐から帰国後に開かれました。
真言とは真実の言葉(マントラ)という意味です。
真言宗のご本尊は、宇宙の真理を現し、宇宙そのものの「大日如来さま」です。そして曼荼羅の諸尊仏は宇宙のいろいろな面をそれぞれ表している仏さまたちです。
根本経典は「大日経」と「金剛頂経」。
真言密教では、大日如来と身心一体になる修行を実践することで「即身成仏/そくしんじょうぶつ」(この身このままで悟りを得ること)を目指します。身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)の三つのはたらきが大日如来と等しくなる三密行という修行を行います。
お大師さまは般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)で “それ仏法遥かにあらず 心中にして即ち近し 真如外にあらず、身を棄てていずくにか求めん” (仏教の悟りというのは、自分と無縁な遥かかなたにあるのではなく、私たちの心の中に宿っている。真実というものは外にあるのではなく、自分の中にこそある。)と述べられ、迷いも悟りも心身の中にあるのだから、悟りに向かって発心すれば至ることができると述べられています。
法要では、「般若理趣経/はんにゃりしゅきょう」、「般若心経」、「観音経」、「諸仏のご真言」、「陀羅尼/だらに」などをお称えいたします。
(上記画像 空海筆・金剛般若経開題残巻 出典/国立博物館蔵 ColBase“https://colbase.nich.go.jp/”)
長楽寺の歴史について
長楽寺は、伝承によると約千二百年前(大同二年)に弘法大師空海により創建された古刹です。
浜名湖を抱え、遠淡海(とほつあはうみ)→ 遠江国(とおとうみのくに)と呼ばれたこの地は都の有力諸氏や寺社の荘園も広がり、都との繋がりも深い地域です。奈良時代の千三百年前ごろには、高野山真言宗の鴨江寺(鴨江観音)も創建されていたりして古からの伝承も数多く残っています。
大同二年という年は、長楽寺の他に京都の清水寺、奈良の長谷寺、富士宮市の富士浅間神社など全国に多くの寺社建立、また全国の鉱山の開坑、八溝山や森吉山の鬼退治伝説や各地の温泉にまつわる伝承も多く伝わっています。噴火や津波、干ばつなどの天災もあったと伝わり、それらの創立や開山なども何らかの関係があるのではと推測される時代です。しかし現在、大同の四年間に噴火や津波、旱魃など天災に関する科学的な根拠は見つかってはいないようです。
寺には鎌倉時代の御本尊の馬頭観音、静岡県で二番目に古いとされる梵鐘が残されていて、日干し煉瓦で作られている室町時代の土塀もあり往時を偲ばせます。
南北時代の遠江は南朝方の勢力が強く、鴨江寺、近隣の井伊谷の龍潭寺、井伊谷宮にも南朝の関わりが残っているので、長楽寺もやはり南朝方に関わりがあると推測されます。
戦国時代から安土桃山時代にかけては、あまり資料は残されていません。
江戸初期に、小堀遠州が作庭したと言われている「満天星の庭」を有し、1621年の江戸時代に気賀領主となった関所を守る近藤家が祈願所として崇敬し建てた客殿が現存しています。
江戸時代の山門には1664年から数年にわたり金指近藤家に寓居した独湛和尚筆の長楽寺扁額があり、往時は光る岩座下の山麓に寺領25ヘクタール、七堂迦藍が建ち並び繁盛したようです。徳川将軍の御朱印状も三代将軍から幕末まで続いて授かっています。
明治の廃仏毀釈で規模が縮小、昭和22年の農地解放で寺領も失い一時荒廃しました。この時、収入の道を失った寺が雑木林を開いて実の収穫に植えた梅が毎年春になると白、紅の花をつけ、辺りに芳香を漂わせていい風情となりました。
近年では寄贈された大正や昭和初期製の数台あるリードオルガンによるコンサートなども吉田真譽尼僧のもと開催、オルガン寺としてのユニークな一面も地域の関心を集めています。
長楽寺の資料は、その歴史の中ではあまり残されていません。わずかな手がかりも探りながら未来に繋げて行ければと思います。もし、少しの情報や資料などがありましたらご連絡をいただき、歴史の空白を埋めていきます。
◉長楽寺住職/高野山真言宗 別格本山 甲江山 鴨江寺 住職が兼務をしています。(鴨江観音 住職)鴨江観音HP → http://kamoeji.jp
◉長楽寺 悠愉友(ゆうゆう)庵 庵主/吉田真譽(よしだしんよ)
立教大学にて心理学を専攻。24歳で出家得度。山梨県に常楽寺を建立。温かみのある仏画を描き、展覧会など、東大寺ほか各地で開催。仏画の会や瞑想会なども開催。般若心経の出版、仏画の“み仏カレンダー”など。十数年、無住であった長楽寺を皆さんの力を借りて少しずつ修復中です。